新「会社人間」主義ー年功制と時代

色々問題点を指摘してきたが、年功制が一般的に駄目なのではなく、1999年を中心にしたこの時代においては、不具合箇所が目立ってきたということである。

一般的に成果主義が是で、年功制が非というものではないと思う。年功制は既に長い時を経過し存続している。多くの人に支持されない制度が何十年も続くわけがない。1960年代から70年代の高度成長期は、賃上げ率は高かったし、働けば豊かになることが皆で実感できたから年功制でも別にかまわなかった、というより組織のパワーを全開させるためにはむしろ優れた効果を発揮したのである。パイがどんどん大きくなっていく時代には、ナイフの入れ方にそれほど気を遣わなくても皆が満足できたわけだ。

日本民族にとって長い幸福の時代から停滞の時代に入り、小さくなったパイを個人の力で奪い合うことになった。どちらの分け前が大きいだの、小さいだのといって見苦しい口論をしなければならない窮屈な時代が当分は続くのである。「個人の力」を測る基準をある程度目に見える形にして、皆の前に提示しないとナイフの入れ方に異論が出るようになったのだ。

年功制は、結果における平等な配分を「順送り」という理屈で合法化してきた制度である。若い者も順番を待っていればやがて先輩がもらっているのと同じものにありつけるという期待のもとに、じっと時を我慢した。おとなしく待っていたら、突然、「成果主義」という天の声が降りてきて、将来の(ある程度)約束されていた分け前をご破算にされてしまった。「欲しかったら、自分で頑張りなさい。」と天の声は続ける。誰にも正面切って反論しにくい理屈である。

賃金制度の改訂において、上を削って若年層の賃金を手厚くするなら分かるが、上を削るだけに終えてしまうなら、世代間の不公平の固定化という問題になってくる。世間の動きは、中高年者のカーブを寝かせつつあるようだが、そのかわりに若年層に配分しているかどうかが重要なポイントになる。

年功制の世界では、若者は「順送り」を甘受する替わりに、経験豊かな上司・先輩から惜しみない教育・指導を受けることが出来た。成果主義の世界では、成果を極力個人に帰属させようとするから、湯水のようにただで教えてもらえると期待するのは虫が良すぎるかもしれない。一方、大学は職業教育を完璧に教えきることのできる機関
ではないから、新人は、先輩の仕事ぶりを見て盗んで成長していく他はないが、これだけだと健全な世界とは言いにくい。「教えあい、助けあいながら共に成長していく」・・・年功制にあって成果主義に欠けている大切なポイントがここにある。
(新「会社人間」主義ー私の考える「ホワイトカラー」 1999年1月 より)

当時から⒛年近く経ったが、日本の経済のパイは大きくならず、窮屈な時代が続いている。
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