新「会社人間」主義ー年功制の問題点Ⅲ・・・「予測可能性」と能力の出し惜しみ

かなりの部分まで予測可能な制度・運用にしておくと、個人の能力発揮をセーブするマイナス効果が出てくる。「人間は、内在する自発的な理由がない限り、経済合理主義に従って活動するもの」との仮説に立てば、当然の帰結である。ものすごく頑張って成果を出しても、適当に流していても、すぐには報酬に大きな差がつかないとすれば、力をセーブするのが自然であろう。但し、あまりに手を抜くと評価が下がり、定年までのマラソンレースで後れをとってしまうのでそこそこは頑張るという図式である。

海外に駐在したことがある者は、「現地の従業員には日本人のように忠誠心やモラール(士気)が十分に備わっていないから、教育しても限界がある。日本的経営を輸出するのは難しい。」という人がいる。しかし、これは少し違う。伝統的な大企業に勤める日本人は、長期で見た成果と報酬の収支勘定を念頭に置いて頑張っているからモラールが続くわけであり、頑張っても手を抜いても10年ー20年後も差がつかないなら、会社という器を利用して自己実現を目指す人以外には、頑張る人はいなくなってしまう。
外国の人にも長期の労務政策ビジョンをオープンにすれば、今以上にモラールが上がる可能性は高いように思う。

尚、欧米先進諸国やそれを範とするアジア諸国では、生産労働者には人事考課をしないところが多い。

アメリカでは、日本と違って「労働組合員は査定されないことが多い。」事務労働者の47%、生産労働者の40%だけが法律と組合に規制された人事考課を受けている。  熊沢誠 能力主義と企業社会 岩波新書15・16頁」

生産労働者は決められたことをやればよく、成長のための動機づけを特に用意していないということになるのかもしれない。
(新「会社人間」主義ー私の考える「ホワイトカラー」 1999年1月 より)

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