新「会社人間」主義ーパソコン社員論

簡単にいえば、そんなふうにして私が考え始めていたのは、時間に関する一冊の本、すなわち、はげしい日常の活動のさなかに感じられる人生の単調さ、退屈さに関する本のことであった。
            ヘンリー・ミラー 「南回帰線」(新潮文庫

時間は、誰にも平等に与えられている。どういう風に使おうが、同じ速さで進んでいく。若い間は、このことを実感として感じることは難しいかもしれないが。
 さて、サラリーマンの毎日は、表面上は何かと忙しいものである。
忙しく体を動かしていれば、とにかく何かをやったような気分になり、それなりの充実感を持てないこともない。朝から深夜までひたすらに仕事に打ち込んでいれば、余計なことを考える暇はなく、そのことについて何の疑念も持たずに毎日を過ごすことができるかもしれない。問題は、こういう会社人間が、ふと立ち止まった時である。
猛烈な忙しさからほんの少しだけ解放された瞬間に、「俺は今まで何をしていたのだろうか?」と考えた経験はないだろうか。途端に、解が見つからずに煩悶することになる。

 自分では会社への忠誠心だと思っていたものが、実は違うということに気づく。「俺はこんなに(長い時間働いて)頑張っているのに、なぜ認めてくれないのだ?」という気持ちは正に見返りを求めて頑張る行為そのものであり、会社への忠誠心でも何でもない。会社もその種の滅私奉公に応える余裕はなくなってきている。

 労働には自己実現の要素が必要であり、その為には時間をかけることだけで満足せず、中身の濃い仕事をして成果を出すことである。中身の濃い仕事とは、即ち、他の誰でもない、あなたでなければ出来ない仕事である。仕事の進め方や結果は人により大きく違ってくるものである。地球上に自分しかいないとまでは言えなくても、業界、社内あるいは、部門の中ではできるのは自分しかいない、というような仕事ができるように研鑚していくことである。

 何かを成し遂げようとする場合、時間と労力をかけなければ成就しないのは確かであるが、今までの日本のサラリーマンは、

   「労働時間=頑張り=成果」

という図式に無意識のうちに呪縛されてきたのではないかと思う。いつも一生懸命にやっているつもりでも、実は無為に過ごしている時間が意外に多いのかもしれない。「時間を会社に買い取られているのではない。これは、誰のものでもない、自分の時間である!」という自覚があればもっと大事に使いたくなるのではないだろうか。以下に引用する「パソコン社員論」はそこのところをうまく言い当てている。

「私の友人の元大手銀行マンは、日本のサラリーマン、とくに若手のホワイトカラーはパソコンと同じように使われているという。
 我々は、朝オフィスに行くとまず自分のパソコンのスイッチを「オン」にする。そして、通常は帰るまでこれを「オン」の状態でつけっぱなしにしておく。これと同じように、会社や上司にとって若手ホワイトカラーは、オフィスの開いている間は常に「オン」の状態になっているのが当たり前だというのである。・・・このパソコン社員論の意味するところの第一は、朝早くから夜遅くまでオンでなくてはならないという長時間労働の問題である。しかし、もう一つ重要なポイントは、「つけっぱなし」というところにもあると思う。我々はパソコンをつけっぱなしにして使うけれども、いつでもそれを使っているわけではなく、必要なときにだけキーボードに向かって実際にそれを動かしている。これと同じように、パソコン社員は朝早くから夜遅くまで会社に拘束されているが、オンになっている時間は必ずしもすべて仕事をしているわけではない。
 5時を過ぎて仕事をする課長が、急に仕事を言い付けたいときにそばにいるように。あるいは朝早く出社した部長の思い付いた作業をすぐに始められるように。そのために、待機のような形で埋め草仕事をしている状態をも、パソコン社員論は示しているのである。」
 清家 篤 「仕事に潜む長時間労働のワナ」労政時報 第3088号

このような光景は一般的に見られるようである。こうなるのは上司にも問題はあるだろうが、部下としても、パソコン社員としてではなく成果で評価されるよう、密度の濃い仕事をするように心がけなければならない。そのかわり、やるべきことが済んだらさっさと帰れば良い。上司の顔色を窺って残業(の真似)をする必要はないのである。
(新「会社人間」主義ー私の考える「ホワイトカラー」- 1999年1月 より)

一般的には、今も日本では、このような状態が多いのではないか。
外資系の少数精鋭の人事・総務部門ではほとんど見かけない状況ではあるが。


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Sweden, Gothenburgにて