新「会社人間」主義ー肩書の示すもの

肩書は、組織の中における役割と権限を示すものではあるが、必ずしも、その人の担当職務の市場価値や専門性の深さを表すとは限らない。そもそも、職種自体が社会に通用するものであれば、このような内部の階層を示す名前を付ける必要はない。組織を超えて職務の価値が認知されていない領域だからこそ、肩書の持つ意味が大きくなるのである。

弁護士、建築家、作曲家、博士等々、これらは、組織に属することはあっても、職種そのものの価値で、外部から認められ敬意を払われる。あるFMラジオの番組進行役(その放送局ではナビゲーターと呼んでいる)が、肩書きの話に触れた後「私達の職種ではシニア・ナビゲーターとか、エグゼクティブ・ナビゲーターなどというのはないですからね。」と笑いながら語っていたのが思い出される。ナビゲーターという職種に階層をつける必要はない。優れたナビゲーターか否かの判定は、リスナーという「顧客」によって行われるからである。

続いて彼が紹介したエピソードがある。かつて、米国のある会社の社長が従業員に対し、給与を200$上げるのとマネージャーの肩書を与えるのと、いずれを選ぶかを聞いたところ、8割の者がマネージャーの呼称を望んだという。マネージャーという肩書のおかげで顧客や社会からの信用度がアップし、自己の満足度も高まるというのが主な理由らしい。このような肩書の持つ効用を無視することはできないであろう。

これからは単なるゼネラリストでは駄目で、他人に負けない専門分野を持つべきだという議論がある(もう十数年前から言われてきたことである)。
もっともである。ある会社で部長が務まったということだけでは、別の会社でも部長が務まることを証明する材料にはならないからである。マネージャーをやったということだけでは、労働力としての市場価値は高まらないのである。今までに何をやってきたかということが問題なのであり、他の人に真似のできない仕事ができるかどうかが、市場価値を決めるものさしになる。

しかし、スペシャリストについても、資格試験でもない限り専門性のレベルを客観的に判定することは難しい。社内ではスペシャリストで通っていても、社外に出ればただの人ということもある。

自他ともに認められる専門家になるということは難しいことである。それよりは、会社の階段を昇って課長や部長になるほうがまだ易しいことなのかもしれないが、それだけを期待しながら若い時期を過ごしていると、結局、何もなさずに年を重ねてしまいかねないので御用心を!
(新「会社人間」主義ー私の考えるホワイトカラー 1999年1月)

「会社」という組織には、肩書に執着する人と、そうではない人がいる。過去の経歴から優秀だと判断して部門長に据えたが、入社3か月後に複数の部下から苦情が寄せられた例があった。「こんな(レベルの低い)案件を、事業部長である私に相談してくるのか?!」というような高圧的・権威主義的な態度で部下に接していることがわかり、教育的指導やコーチングを施したものの改善せず、残念ながら会社を辞めてもらうこととした。ある年上の部下の方は、「この人のために残りの人生を捧げる気にはなれないので」と、定年前に退職していった。
所詮、肩書などというものは会社という閉じた空間の中で人為的に作られたものに過ぎない、ということを肝に銘じたい。部下がついてくるかどうかは肩書ではなく、人格・人間性なのだから。
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(ここに記載した文章は全て筆者のオリジナルであり、事前の承諾なき無断転載を固く禁じます。イラスト作成は、「霧」のオリジナルであり、事前の承諾なき無断転載を固く禁じます。)