傾聴ができれば、それで良いのか?

「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」
ヤコブ1:19

聖書を読むまでもなく、人の話をしっかり聞くこと(傾聴)が、円滑なコミュニケーションに必須であることは周知の事実である。他人の話を遮ってしゃべりまくることほど他人に不快な思いをさせるものはない。かくいう筆者は小学生の頃から自分の言いたいことを言いきってしまう性格だったので、さぞかし、周りに迷惑をかけたことだろうと思う(が、いまだに傾聴は得意でない)。

「傾聴」とは、相手の話を注意や関心を持って共感的に聴くことである。そうすることで、聞き手は表面的な内容だけではなく、内に込められた相手の思いをくみ取り、相手を深く理解することができるし、話し手の側も注意深く話を聴いてもらうことで、自分を受け止めてもらえたと感じ、自己重要感を高めたり、自ら気づきを得たりすることができる。
元々はカウンセリングの技法として提唱されたものだが、日常やビジネスの場でもコミュニケーション手法として活用することで、より良い人間関係や信頼関係の構築に大いに役立つとされている。

だから、人事担当として、勤務先の会社でも、傾聴の大切さをテーマにした研修を何度か行ってきた。

しかし、違和感を覚えることが多少ある。

一つ目:カウンセラーと話をしていると、確かに「傾聴」はしてくれるのだが、それが「技法」の一環で行われていると頭で分かってしまうと、相槌その他の反応がなんとなく、ロボットからのオウム返しのように感じてしまう。筆者の思い込み過ぎだろうか。

二つ目:社員の中には人格円満、冷静沈着でエモーショナルになることなどなく、人の話をとにかくよく聞いてくれる人がいる。だが、「傾聴する」程度が強すぎて、「返し」がなさすぎるのである。「一体、何を考えているのか?」、「こちらの意見に全面的に賛成なのか? 不満を押し殺して聞いているだけなのか?」が判然としない。これも、ロボットと話している感じになってしまう。

コミュニケーションは双方向に行って初めて意味が出てくる。聞くだけで、意見を抑制しすぎるのも問題である。多少ぶつかり合っても、異なる意見を交わしながら、合意点に持っていく努力・・・このプロセスを避けるつもりなら、初めから「傾聴」などしない方が良い。乱暴な結論のようだが、筆者はそう感じている。