定年後の心象風景(その1)

「定年後」をテーマにした書物が売れている。 平均寿命が80歳を超える一方で、多くの日本企業の定年制は60歳のままであり、残りの20年をどう埋めていくかを悩むサラリーマン諸兄が多いからである。 より切実には、公的年金の受給開始年齢が65歳まで引き延ばされた為、少なくとも5年間の収入をどう確保するかという問題がある。晩婚化が進んだため、60歳になっても子供達が経済的に独立しているとは限らないからだ(計算上、すべての子供を38歳までにつくっておかないと、60歳までに4年制大学を卒業し、就職させることができない)。 筆者は、今春、外資系企業を定年により退職した。正確には、取締役の任期満了により退任したわけだが、60歳を過ぎて職を失うという点で大差はない。

少なくとも75歳を超えるまでは働きたいと思う。 理由は3つある。

1.まだ扶養家族がおり、経済的理由から働かなければならない。

2.40歳前半で脱サラし、70代まで自営業(一人親方)を続けた父の豪放磊落な生き方が、人生の最終目標になっている。小心翼々としたサラリーマン生活しかしていない筆者にとって、憧れの対象であった。

3.仕事をしないで家にいる姿が想像できない。 趣味は、ギター・ベース演奏、作曲等、多少ある。だが、自宅には好きなことだけに没頭するための物理的・精神的スペースがない。居場所がないのである。結婚後に専業主婦になり、家事と家計を回してきた家内にまったく頭が上がらない(良い意味でも悪い意味でも、彼女が家庭の支配者である)。

 

若い頃に読んだ、「南回帰線」(ヘンリーミラー)に出てくる主人公の友人、マグレガー(弁護士)が隠居後の父について語る一節が、心に刺さっている。

 

「・・・おれがいちばんがまんならないのはどういうことか、知ってるかい? 自分のおやじの顔を見ることだ。隠居して以来、おやじは一日中暖炉の前にすわったきりでふさぎこんでるんだ。まるでへたばりこんだゴリラみたいにすわったきり、それが一生あくせく働いたあげくおやじの手に入れたものなんだ。・・・」

 

80年前に書かれた本であるが、鮮明な情景が目に浮かぶ。この光景を避けようとしてもがいている心に余裕のない自分が見えて恐ろしい。