新「会社人間」主義ー年功制の問題点Ⅰ・・・市場競争原理から離れている

年功制は、何よりも内部の秩序を優先するシステムである。年次管理は、内部の人間を納得させるための交通整理の手段であった。先進他社に追いつくというような分かりやすく達成しやすい目的の為に、従業員一丸となって力を結集していく局面においては、これは十分に機能した制度である。

しかし、会社自体は常に市場の競争にさらされているというのに、人材の登用だけは内部秩序優先というのもおかしな話である。これが長年にわたって維持されてきた理由は、つまるところ、誰が社長や経営幹部になろうとも右肩上がりの経済成長の時代には、結果において大した違いはなかったであろうということである。

会社の業績が大いに沈滞したり存亡の危機に直面すると、内部秩序をひっくり返してでも外部と渡り合っていける若くて力のある人材をトップに登用する。所謂「〇〇人抜き」という若手社長の登場である。しかし、本人を除くほとんどの役員・社員の頭の中は、年功制の軛から逃れ切れていないから、この集団を引っ張っていくのは新米社長には荷が重いことである。先輩役員に社長の方が気を遣って苦労する。会社の業績がそれなりの状態に戻ってくると、また従来の順送り人事が復活する場合が多いのは、この辺の事情によるものであろう。

会社生活を長くやっていると、社外の人に会う度に「あの人は何年卒くらいの年齢だろうか?」などと推測する習性が身についてしまう。ビジネス社会において、相手の年齢や、大学卒業年次を聞かずに済む世界があれば実に気楽だろうなと思うことがある。米国人ビジネスマンと話すときには年齢は話題になりようもないので、フランクな付き合いができる。
労働省で、ある日突然、「ビジネスマンについては年齢を聞いてはいけない」という法律を作ったら面白いだろうなと思うのである。
(新「会社人間」主義ー私の考える「ホワイトカラー」 1999年1月 より)

今は、年齢が処遇に結びつくことはまずない外資系に勤務しているので、当時書いた内容は過去の記憶の世界になった。この間入社してきたばかりのグローバル本社の社長が40代半ばで、自分より若くてもあまり気にはならない。
但し、人を惹きつける魅力や円熟味というようなものは、ある程度年を重ねないと出てこないと思っており、若ければなんでもかんでも良いという気にはなれない。

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